店の店主らしき男が、息を切らせながら下から上がってきたのは、それから暫くしてからだった。
彼は店の前にいる二人を見つけると、お客さんですか。― と声を掛け、麻子が頷くと、これは大変申し訳ありません。― と、何度も頭を下げて、一度店の奥に消えたが、暫くすると、待たせたお詫びにと、お茶と和菓子を載せた盆を持って出てきた。
麻子は理由を話して、先ほど店から勝手に水を貰ったことを詫びたが、店主は白い杖を持った男を一瞥すると、自分が居なかったことが悪いので、気にしないでください。― そう言って頭を掻いた。
それから麻子は、お茶を出して貰ってはいたが、男に何か飲みたいものはないか訪ね、男が水でいいと言うので、自分はコーヒーを注文した。
店主は、ここでは落ち着かないだろうから、店の中に入って休むように進めてくれたが、男は、風が気持ちがいいので、ここで休ませてもらう。― そう言って動こうとはしなかった。
二人は、それから暫くの間、誰も通らない階段に視線を落とし、黙ったまま座っていた。
「・・・あのゥ、・・・たぶん、もうここから社殿が見えると思うのですが・・・。・・・すぐ上に、建物は・・・、・・・みえますか。」
どれ位経ったのか、麻子は軽い眠りに引き込まれていた。
その男の側に腰を下ろし、何を考えるでもなく、何故か暖かいものに包まれているような錯覚を覚え。それと、残っている時差ぼけが重なって、いつの間にかうつらうつらしてしまったようだった。
「えッ、・・・あッ、ごめんなさい。つい、うつらうつらしてしまったようです。何か言われました・・・。」
「・・・フッフッフッ、疲れていらっしゃるようだ・・・。・・・いや、もうここから社殿が、・・・見えると思ったものですから。」
そう言われて、麻子が見上げると、確かに木造の古い社殿がすぐ上にあり、その奥にコンクリート造りの新しいものも見えた。
「・・・えッえッ。あッ、気が付きませんでした。もうすぐそこにあるのですね。」
さすがに神殿の周りの樹木には、人の手は掛けられないようで、昼前の時間帯だというのに、神殿の周りは大きな樹木に取り囲まれていて、少し薄暗く、その周りだけ冷たい空気が漂っている感じに見えた。
「すぐ上の、・・・古い神殿の後ろには、・・・狐を祭っている祠がありましてね。・・・私には、・・・あそこに本当に狐が棲んでいるのか、・・・子供の頃から不思議でしてね。ほら・・・、たぶん、・・・この店でも油揚げを売っているでしょう・・・。・・・昔から、油揚げを買って、・・・祠の穴のところに供えるんですよ。・・・昔から、・・・ここら辺は、子供心にも怖いところだった。」
「へェ、そうなんですか・・・。お狐様をねェ・・・。」
男が言う、狐を祭ってある祠までは、そこからは見えなかったが、立ち並ぶ鳥居の隙間から、微かに見える蝋燭の光を、麻子は不思議そうに見つめた。
それから二人は、店主が作ってくれたコーヒーを麻子が飲み終わるのを待って、再び歩き始めた。
そこからは、すぐ上の古い神殿を回りこむように階段が続いていて、鳥居のトンネルの終点が近いことが分かった。
それに、時折、太鼓を打ち鳴らす音も聞こえるようになってきたので、麻子はなんとなくほっとした気持ちになりかけていた。
だが、麻子の気持ちとは裏腹に、男の方の様子は、階段を一段上がるごとに明らかに変わっていった。
一度長い休憩を取ったことで、疲れがどっと出てしまったのか、歩き初めて暫くすると、麻子の肩に掛かった男の手が、少しずつ重さを増していくのが麻子にはよくわかった。それに息使いも、それまでとは比べ物にならないほどの乱れようになっていた。
樹木に覆われて薄暗い鳥居の階段の中に、二人の息遣いだけが木霊し、下から吹き上げてくる風に乗って消えていった。
そして、最後の階段も半分以上あがって、もう神社の朱色の門の下の部分が見え始めたとき、さすがに麻子も、これ以上無理をして前に進むことを躊躇して立ち止まった。
「誰も、他に来る人はいませんから、ここで座って少し休みましょう。もう大きな門が見えるようになりましたから、あと少しですよ。」
男は膝を折って階段にしゃがみ込むと、辛そうに肩で何度も大きく息をしていたが、もう大きな門が見えるとわかると、あそこまでは頑張れるので、大丈夫だ。― といって、力なく立ち上がった。
麻子はどうしたらいいものか迷ったが、もうここまで来れば、男の言うことを聞いてやろうと思いなおし、男が掛けているカバンを外して自分の首に掛け、肩に掛かった男の手を取ると、自分の首に回して、反対の手で男の腰を支えて歩き出した。
男だけではなく、麻子にも、残りの数十段の階段は、限りなく長いものに感じられた。
5、6段進んでは立ち止まり、また5、6段進んでは立ち止まりながら前に進んだ。
昼近くになって太陽の日差しは強くなったというのに、山陰の山間を吹き抜ける5月の風は、まだまだ冷たかった。それでも、いつの間にか、麻子の額には大粒の汗が浮かんでいた。
「あと、・・・もう、4、5段ですよ・・・。・・・そしたら、門の下に着きますよ・・・。頑張ってくださいね・・・。」
「・・・・・・・・・・。」
最後は、男を引きずるようにして、麻子は朱色の大きな門の下にある、少し広い踊り場になだれ込むように倒れこんだ。
麻子も男も息を弾ませ、暫くはそこにへたり込んだまま、動くことすらできなかった。
もしこんな光景を、通りがかりの知らない人が見たら、きっと変に思い声を掛けてくれるだろうに・・・。そしたら頼んで、この人を門の中まで運んでもらえるのに・・・。― すぐそこの門の内側では、確かに人の動く気配があるのに、何故か門を通って降りてくるような人の気配は感じられなかった。
どうも今日は私にはツキがないようね。― 麻子は諦めに似た顔で皮肉っぽく笑うと、ゆっくり立ち上がって男を見下ろした。
男はまだそこにうずくまったまま動こうとはせず、大粒の汗が額を覆っていた。
「大丈夫ですか・・・。ちょっと待ってください。そこにお清めの水がありますから、いま杓に酌んであげますからね。」
麻子は男を抱き起こすと、門の下の階段の隅の方に連れて行き座らせ、柵にもたれ掛からすと、急いでお清めの水を杓に酌んで男の手に持たせた。
しかし、男は相当まいっている様子で、仕方なく麻子は自分の手を男の杓を持つ手に添え、ハンカチを男の口元に当てると、ゆっくりと水を口の中に送り込んでやった。
「いいですか、ゆっくり飲んでくださいよ。あせらないで・・・。」
サングラスをしていて、男の表情を読み取れないので、男の意識がどれ位あるのかわからず、少し不安を感じ始めたが、水を二くち三くち飲み込むと、男にも多少落ち着きが感じられるようになったので、麻子は胸を撫で下ろした。
「大丈夫ですか。よく頑張りましたね。後、この門をくぐれば、境内ですからね。ご苦労様でした・・・。」
男は麻子のその言葉を聞くと、こくり― と小さく頷いた。
そして、大きく溜息をつくと、本当にありがとうございました。― そう言って、うな垂れている頭を、さらに下げるのだった。
「あのォ・・・。本当に通りすがりの者が、こんなことをお聞きするのは失礼かもしれませんが、どこか、お体、お悪いんじゃありません・・・。どうもご一緒していて、様子が普通じゃないように見えたものですから・・・。」
男はうな垂れたまま、何も答えようとはしなかった。
麻子は、やはりこれはまずいことを聞いたようね。― と思ったが、かといって取り消すこともできず、ちょっと手を清めてきますから。― そう言って水場に立ったが、手を清め終えて、口に水を含もうとした時、後ろから、男の搾り出すような声が聞こえた。
「・・・おっしゃる通り、・・・私は、病気です・・・。それも、・・・もう長くない・・・。」
3メーターばかり離れた所にうずくまり、男がか細く答えた言葉なのに、もう長くない。― 最後に口からでたその言葉だけは、麻子の耳になぜか鮮明に届いていた。
そして、その言葉を聞いた麻子は、手に杓を持ったまま、暫く動くこともできなかった。
「僕の人生はね、もう長くないんだよ。麻子・・・。」
3年前、長年連れ添ったジムが、主治医から余命数ヶ月と宣告され、麻子とスミレを前にして、自分の運命を告げてくれた時のことを思い出した。
長くない。― 突然その言葉を聞かされ、どれだけ動転してしまったことか。暫くの間は何も手に付かず、何をどうすればいいのか、ジムに何を言ってあげればいいのかもわからず、隠れては泣いていたが、励ましてくれたのはスミレだった。
「マーム。これからは出来るだけ、ダードゥと居てあげましょ。それだけでいいじゃない。ダードゥもそれが一番の望みだよ。」
娘にそう言われて、麻子は余計な事を考えなくなった。日に日にやつれて、衰弱していくジムを目の当たりにしていても、麻子とスミレは頑張って笑顔を絶やさなかった。ジムも、そんな麻子とスミレを見て、幸せそうな顔を見せてくれた。
「僕はね、君達に幸せな人生をもらった。ありがとう。」
ジムが最後にそう言い残し、逝ってしまった後、ダードゥはきっと安心して天国に行けたよ。― そうスミレに言われて、麻子はやっと肩の力を抜いて悲しみを表にだすことができたのだった。
もしその男が、目の見える人間だったら、おそらく麻子は、振り返って男を直視することは出来なかっただろう。
それに、自分にとって最も大切だった人と、まったく同じ運命を背負った目の前の男に対して、その運命を一度見届けたことのある者としては、軽々しく掛けられる言葉など、勿論なかった。
だが、麻子は強張った顔で、ゆっくり振り返ると、男に近寄り、静かに跪いた。
「辛いことを聞いてしまいましたね・・・。済みません・・・。許してくださいね。」
そう言うと、急に涙が溢れてきて止まらなくなってしまっていた。
「ごめんなさい。私が泣いたらだめですね・・・。・・・でも、3年前旅立った連れ合いが、やはり同じように余命を宣告されてのものだったので、つい・・・。」
こんなことでは、返ってこの人を傷つける。― そう思ったが、男は黙っているばかりで、何の感情も表に出している様子はなかった。
それからどれ位、二人は黙り続けたまま、そこにいただろう。
最後の階段を上がり、門をくぐり、数十メーター歩けば、男が待ち合わせの場所にしているところまで行ける。
しかし、麻子には、どうしても自分から、行きましょう。― そう言って男を立ち上がらせることができなかった。
時間が許すなら、いつまでも、男が自分の意思で動こうとするまで、そこで待っていてやりたい気持ちになっていた。
「もう、・・・じゅうぶんです。じゅうぶんですから・・・。」
男が、ぼつりとそう言って、手を差し出してきたのは、下の町のどこかで、正午を知らせるチャイムが鳴った時だった。
「私は、・・・自分のことを、それほど弱い人間だとは、・・・思っていません。・・・だから、気にしないでください。・・・それよりも、もう、これ以上、・・・お手数を掛けると、辛くなる・・・。・・・そこの、境内の、駐車場に降りる、階段のところまで、・・・連れて行ってもらえますか。」
そう言って男は、柵を持って立ち上がり、杖を頼りに、腰を折った姿勢で、2歩ばかり歩きかけたが、そのまま崩れるようにその場所に座り込んでしまった。
「無理をしないでください。もう境内はすぐそこなんですから・・・。それに、私には気を使わなくてもいいんですから・・・。」
「・・・・・・・・・・・。」
「・・・ですが、どうしてあなたは、こんな無茶をあえてしようと思ったのですか。この階段をご存知なら、こんな命を縮めるような無理はしないはずです。差し出がましいようですが、ご自分をもっと大切に・・・。」
手を差し伸べながらそう言いかけて、麻子はハッとして、手を引っ込めた。
麻子の心配とは裏腹に、男は蒼ざめた顔をしているのだが、その顔は明らかに笑っていた。
「・・・こうして、余命までわかってしまうと、・・・いったい、残りの日々を、たった一人で、どうして過ごせばいいのか・・・。ただ、ベッドの上で、病人面して、その日が来るのを、待つだけなのか・・・。色々考えましてね。・・・それで、どうせ、この先、何も出来ないのなら、・・・自分が一番、今したいことを・・・。・・・と、そう、考えたんです。・・・フフフ。・・・私には、家族も、気を揉む者も、・・・誰も側には、いませんから。・・・もし、そういうものでもあって、・・・精神的な、支えにでもなってくれれば、少しは、ドクターの言うことでも、聞いて、ベッドで、じっとしてたかもしれませんが・・・。」
踊り場に座り込んだ姿勢が辛かったのか、男は手探りで階段を見つけると、杖を頼りに後ずさり、座りなおして、それから大きな溜息をついた。
「結局、・・・思いついたのは、ふるさと・・・。生まれ育った町に帰って、子供の頃、遊び回った、思い出のこの場所に、来ることでした。ここだったら、懐かしい山河は見えなくても、一人で、何とかなるかもしれない・・・。それに、もう一度、この階段を上がって、みたい・・・。そう、思ったんです。・・・可笑しいでしょ。最後に、そんなことしか、・・・思いつかないってことが。・・・でも、本当に来て良かった。あなたのおかげで、今日は、神様から、最後に、・・・最高の、贈り物を貰った。・・・そんな、気分です。」
麻子は男の話を聞いて、少し寂しい気持ちになったが、かといって、男に対して軽々しく言える言葉もなく、ただ黙って聞いているだけだった。
「・・・もう、行かなくちゃ。12時を、回りましたね。・・・もう少し、お願い、できますか。」
そう言って立ち上がろうとする男の手を取り、麻子はまた自分の首に回し、男の体を支えてやるのだった。
男はもう何も言わずに、麻子に従い、二人はゆっくり最後の階段を上がり、門をくぐり、そこから20メーターばかり離れた、下の駐車場から上がる階段のところまで黙って歩いた。
この稲成は日本三大稲荷のひとつらしく、境内には沢山の参拝客がいて、白い杖を持って弱りきった男を支えながら歩く麻子を、不思議そうに見る者もいたが、麻子はもう何の気にもならなかった。
「ここにベンチがあります。ここに座ってお迎えの人を待ちますか。階段の降り口は反対側になりますが、ここだったら、お迎えの人もすぐに気付くでしょう。」
わかりました。― 男はそう言って、杖でベンチを探ると、ゆっくり腰を掛けた。
「私はもうこれで行きますが、お一人で大丈夫ですか。もし不安でしたら、そこに社務所がありますから、頼んでおきますが・・・。」
「いいえ。大丈夫です。・・・迎えの者は、12時に、来ることになっていますから、もしかしたら、もう、そこいらに、いるかもしれません。」
「わかりました。くれぐれもお気をつけくださいね。」
そう言ってから麻子は、もしかしたら誰か人を探している素振りの人間はいないかと、辺りを見回したが、あいにくそれらしい人間は見当たらなかった。
「本当に・・・、本当に、今日は、ありがとう、ございました・・・。心から、感謝します。これからも・・・、良い人生を・・・、お過ごしください。」
男はそう言うと、深々と頭を下げた。
じゃあ、私はこれで・・・。― そう言って、先に古い社殿の方から回ろうと、麻子がきびすを返して歩き出した時、あの・・・。― そう言って、男に再び呼び止められた。
「度々、すみません・・・。・・・どうか、くれぐれも、娘さんには、よろしくお伝えください。」
「わかりました。伝えておきます。」
「金沢には・・・、これから・・・。」
「えェ。そのつもりです・・・。では・・・。」
男は、うんうんと頷くような仕草をし、軽く会釈をしたが、それっきり顔を上げようとはしなかった。
この稲成は、麻子達が上がってきた階段の門の右上に古い木造の社殿があり、そこから境内をぐるりと囲むようにして、コンクリートで出来た儀式殿、社務所、参集殿と並び、現在の本殿は古い社殿のほぼ向かい正面にある。
麻子は古い社殿の階段を上がると、神殿に向かって手を合わせ、ぐるりとあたりを見回したが、現在はそれほど使われていないせいか、人影はなかった。
もともとこの町を訪ねる気などなかったので、前もって下調べもせずに来たせいで、麻子にはこれといった目的もなく、とりあえずこの稲成の参拝だけすれば、後はどうでもいいと思っていたので、スミレがここまで上がってくるまで何をしようかと思ったが、男が言っていた裏の狐を祭った小さな祠のことを思い出し、裏に回ってみた。すると、そこには沢山のローソクを燈した、狐を祀った小さな祠があり、本当に狐が出入りしているのかはわからないが、祠の下には二つの穴があり、穴の前には油揚げが供えてあった。
確かにあの人が言ったように、少し怖い雰囲気があるわね。― 麻子は誰も来ない、何か特別な雰囲気のあるその場所に長く居る気にはなれず、そそくさと表に帰ると、隣の儀式殿に降りる階段を下りていった。
そして、儀式殿の前まで来て、ふと男と別れた場所の方を見ると、すでに男の姿は消えていた。
良かった。ちゃんとお迎えの人が来てくれたんだ。― 男の姿が消えていることで、その時になってやっとホッとした気持ちに麻子はなっていた。
でも・・・、こんな形の人との出会い方なんて、初めてだな・・・。― これまでの人生の中で、何度となく人との出会いと別れを繰り返してきたが、1時間にも満たない間に、あそこまで他人の人生に触れたことはなかったし、まさか死を悟った人に会って、介護までする羽目になるなんて、思いもよらぬことだった。
ただ、何かどこかで以前会ったか、見かけたかしたことがあるような引っかかりだけは、少し気になって残っていたが、それも自分の思い違いだろうと、麻子は気持ちを切り替えるかのように、胸の前で一度手をぱちんと叩くと、よし。― そう小さく呟いて、本殿の方に向かって歩き出した。
「マミー、ごめんね。待った。」
そう声を掛けて、神殿に手を合わせている麻子の方をぽんと叩くと、スミレは麻子の側に並んで手を合わせた。
「神道って日本の宗教の中では、一番付きやい易いよね。神頼みが一番し易いのもこれだしさ・・・。」
スミレは一人で勝手なことを並べながら、何か念入りに頼みごとをしているようだったが、麻子が待たずに階段を下りようとすると、後ろから追いかけて来て、麻子の手を掴んで並んで歩きだした。
「これでもね、遅くなったから、ここに上がる階段、走って上がってきたんだよ。だけど、どうしてここの階段って、あんなに木のゲートが沢山並べてあるのかなァ。・・・ちょっとミステリアスだけど・・・。」
麻子は、木のゲートという表現が可笑しくて噴出してしまったが、走って上がってきた。―にしては、息も切れていないスミレの若さが羨ましかった。
「そう言えばスミレ。1時間位前に、下の橋のところで、目の不自由な人助けてあげたの・・・。」
「あ―、あの人ね。信号を一緒に待っていたから、手を引いてあげたんだ。でもどうして知ってるの。」
麻子はここに上がって来るまでのことをスミレに話して聞かせた。そして、その男がスミレに、くれぐれもよろしく。― そう言い残したとことを伝えた。
「そんな、わざわざいいのにね。でも、あの人もどこか外国に住んでるのかなァ。ありがとう。― って言うから、つい英語でダッツ・オーケー。― って言ったら、サンキュー・レディー。― って、突然きれいな英語が返ってきたので驚いちゃった。」
麻子は思いがけないことをスミレから聞かされて驚いた。津和野には住んでいないと言っていたが、まさか自分と同じように海外に住んでいるとは一言も言ってなかったし、どうして黙っていたのかと不思議に思った。
それから二人は、上がってきた階段を、まるで姉妹のようにはしゃぎながら降りていった。。
上がって来る時に立ち寄った茶店の前を通ると、今度はちゃんと主が店番をしていて、目が合ったので会釈をしたが、今度は若い娘の手を取り、はしゃぎながら降りてきた麻子を見て、不思議そうな顔をしていた。
それから二人は弥栄神社のところまで戻り、名物のいなりを食べるために、美松食堂に立ち寄った。
予約を入れているSL山口号の出発時間まで、まだ3時間近くあるので、二人はゆっくりここで昼食を取ると、津和野大橋を渡り、殿町界隈のみやげ物店めぐりで時間を潰した。
スミレは日本に来て名所、旧跡を訪ねると、必ず手作りの小さな民芸品を買って集めていた。今回も手当たり次第に何軒もの店に首を突っ込んで、何にしようか迷っているようだったが、結局カトリック教会の前の店で、和紙で出来た小さな神楽面のキーホルダを見つけると、その惚けた顔がよほど可笑しくて気に入ったらしく、珍しくすぐそれに決めたようだった。
「ねェ、マミー。金沢のグラン・パーとグラン・マーにも何か買っていく。・・・でも、これから九州にも行くのに、こんなに早くお土産買ったら大変かなァ。」
「そうねェ・・・。確かに・・・。」
そう言いかけて、麻子は急に黙り込み、目を見開いたまま動かなくなった。そして、暫くすると、まるで何かにとり付かれたかのようにふらふらと店を出て行き、掘割の側に放心したようにしゃがみ込んだ。
「まさか・・・。そんな・・・。」
麻子は男と別れる時、金沢にはこれから行くのか。― そう訪ねられた。
「私は・・・。金沢の実家のことなど、一言もあの人に言っていない・・・。なのに、どうして・・・。」
津和野の町に麻子のことを知る人間などいようはずもないし、アメリカの日系の知人でも勿論ない。いろんな憶測が頭の中を駆け巡り、動揺するばかりだった。
「でも、そんな・・・。」
礼一の顔が頭の中を過ぎった。
礼一の顔は、今でも思い浮かべることができた。しかし、あの男の風貌からは、どうしても礼一を想像できなかった。白髪交じりの口髭と顎鬚を長く伸ばし、サファリハットを深く被っている上に、サングラスまでしていた。それに病気のせいで凄くやつれて見えたのだから、声だけで礼一を想像することなんてできるはずもなかった。ましてや別れてすでに二十数年経っている。
「マミー、どうしたの。気分でも悪いの・・・。」
驚いて追ってきたスミレは、心配そうに声を掛けるのだが、麻子は呆然と掘割の水面を見つめるばかりで、何も答えようとはしなかった。
スミレは何が起こったのか理解できない様子で麻子を見ていたが、暫くすると、麻子はおもむろに立ち上がり、津和野大橋に向かって歩き出した。そして、橋の袂まで来ると、何を思ったかじっと稲成神社の方を見上げて立ち尽くすのだった。
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